■先月から今週までに7本ほど芝居を観た。全て出演者・関係者に誘われてのものだったが面白いものは無かった。既に自分たちの掌中にあるものを繰り返して見せているだけで、挑戦的なもの、挑発的なものを一切感じなかった。あるいは過去あったものの単純なエピゴーネンであり、模倣に過ぎないものである。「それ、見たことあるよ。しかももっと面白いやつ」。感想を書けばそうなる。
■小劇場の芝居は、小さな客席に向けて行われるので、自然、規定路線で受けるモノ・過去に受けたモノを再生産しがちになる。身内受けや小ネタで客席が沸けば沸くほど一見の観客としてはシラけてしまうし、何よりそのチラチラと客席に媚を売る視線が嫌である。空振りかホームランかのフルスイングよりもコツンと狙ったヒットを生産しようという根性が下衆である。それでは劇場まで足を運ぶ甲斐が無い。その程度の「面白いもの」はテレビやネットにタダでいくらでも転がっているからだ。シロート芝居に金を払って通うのは、何かとてつもないモノ、埒外のモノを見たいと思うからだ。
■一見、挑戦的な意匠を身にまとってはいるように見せてはいるが、その実、薬籠中のものを多少アレンジしているに過ぎないというものも多い。非常に多いのだ。ハッキリ言って客を舐めているのである。馬鹿にしているのである。この程度でいいだろう、と。子供は騙せるかもしれない。しかし、私は騙されない。何より「自分たちが楽しんでいれば、観客も楽しんでくれるはず」というムードが漂ってきて辟易とする。戯言である。それは金を取ってすることではないだろう。共感を求めるばかりで知的な興奮が味わえない。知らないもの、観たことがないものが一切出てこない舞台には価値を感じないし、むしろ時間の浪費である。逆に言えば、例え全体が凡庸、あるいは破綻していたとしても、ただ一つのセリフ、ただ一つのシーン、ただ一つのギャグ、たった一人の役者に見るべきもの、見たことがないものが有れば、それだけで許せる・観てよかったと思う。その瞬間のためだけに、劇場へと足を運んでいる。
■ハッキリ言って芝居の客は甘い。他のジャンル、例えば映画や音楽や文学の客などと比べるとハッキリと甘い。それはそうだろう。知り合いや業界関係者でギッシリと埋め尽くされた客席から簡単に出てくる「良かった」「面白かった」の声。どの芝居を観にいっても、必ず数人は知った顔がいる。どこでも見かける顔がある。それが小劇場という場をつまらなくする。小さなファンを楽しませるサークルと化してゆく。一般の観客の足はますます遠のいてゆく。
■勿論、全て自分自身に跳ね返ってくることである。というより、ほとんど自分のこととして書いた。他山の石としたい。
■その夏、私たちは映画を撮っていた。17歳、高校二年生の夏休みのことだ。いわゆる自主制作映画であり、世の中のほぼ全ての自主制作映画がそうであるよ
うに、最低最悪の駄作であり、同時に大傑作であった。なにしろそれはゾンビ映画だった。ある日、平凡な男子高校生である主人公が目を覚ますと、家族が全員
ゾンビになっている。学校へ行っても、クラスメートは皆ゾンビだ。しかし中に数人、まだゾンビ化していないマトモな男子学生もいる。但し、彼らは全員、女
子用のセーラー服を着ているのだ。そしてとまどう主人公にこう言う。「俺たちは、ゾンビではない。実は、幽霊なのだ」・・・全くアタマが狂っていたとしか思えない脚本だが、我々はマジだった。この脚本を書いたのは勿論私である。
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さて上記のようなストーリーなので、男性俳優が女子用のセーラー服を着なくてはならないのだが、ここで問題が起きた。制服自体は理解ある同級生の女生徒か
ら調達してきたものの、そのスカートが短すぎて、パンツが見えまくるのだ。どのアングル、どのポーズ、なんならただ立っているだけなのに、どうやっても隠
し切れずにパンチラしまくってしまう。それでは困るのだ。このシーンでは男たちはセーラー服を何の違和感もなく、完璧に着こなしていなくてはならないの
だ。男たちがセーラー服を着ている姿がこの世界では最も自然に見えてくる、そういうシーンでなくては困るのだ(書いていてアタマが痛くなってきました
が)。このままでは唯のシモネタ、下品なおちゃらけになってしまう。冗談じゃないぜこれは芸術なんだマイ・ゴッド!
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そこで緊急会議を開いた結果、メンバーの一人が彼女を呼び出し、同じ制服を着込んでもらう次第となった。するとどうだ!全く同じ制服を着ているのに、彼女
は全然パンチラしないのだ。一流のサッカー選手のボールさばきが時に「足に吸い付いているようだ」と形容されるように、彼女が如何に動こうとも、あの短い
スカートのプリーツその一つ一つが一糸乱れぬ動きでもって、まるでヒップに吸い付いているが如く華麗に纏わりつき、臀部を優しく隠し続けるではないか。試
しにもう一度男性俳優に同じスカートを着用させ、彼女と同じように動くよう指示した。まるでダメだ。スカートは言うことを聞かず、初めてサッカーボールを
与えられた子供が力いっぱい蹴飛ばしたようにコントロールを失い、無残にパンチラし続けるのだった。
■早いハナシが、男は「その部分」に
意識がないのである。自覚した意識のない箇所を制御することは出来ない。これは自意識の問題である。彼女たちは、あの短すぎるスカートを毎日履き続けるこ
とでその御し方、コントロールの仕方を実践的に身につけたのだ。その日ちょっとスカートを履いてみた男子に、即座に同じ芸当が出来てたまるものか。身につ
けるべくは、身のこなし、などという技術ではない。自意識の発見、そのものなのだ。
ギャグ漫画である以上、そこに感動も、涙も、ラブストーリーもいらない。「無理に人を感動させる」なんて、それこそ厚かましい話で、真面目にギャグを追求していけば、感動してくださる方は、きっと感動してくださる。そこの値打ちは、観ていただくお客さんに決めていただければいいことなんです。よく、プロ野球の「珍プレー好プレー」ってあるじゃないですか。あれを観てて、なんでおかしく思えるのかって、プロの選手たちが、大まじめにプレイしているからなんですよ。
僕は取材に来たジャーナリストからこう言われたことがある。
「ゴミが集まるところを透明にして、外にある廃棄物をことごとく見せつけるというのは、既成のデザインとは逆の発想ですね。これは、リチャード・ロジャーズが、建物のまさに心臓部である空調機器とエスカレーターをむき出しにしたポンピドウー・センターの設計で先駆けた、ポストモダニズムの建築スタイルに賛同するものなんでしょうか?」
「いいえ、ゴミが一杯になったらわかるようにしただけです」